日本仏教に対する「葬式仏教」という呼称は批判的蔑称として用いられることが多かったが、実はその批判は、インド語原文の誤読・誤解に拮づいたものに過ぎなかった。その一方で占代、インドの出家沙門がインドの在家者に対して葬儀を執行していた事実が確認されない背景には、インド社会がカースト社会であるという特殊な事情があった。 日本人の心の奥底には古来、死者に対する畏敬の念があり、死者を懇ろに弔い祀ることによって善神へと転じさせ、彼らからの守護を得ることで心の平安を得ようとした。その際に期待されたものが「天竺由来の最高の呪術・秘術」としての仏教であったが、そのカは律令制の下で朝廷内に限定され、庶民に対しては秘匿され続けてきた。ところが一部の出家者たちが、庶民の願い(呻き)に応じて葬儀を執り行うようになり、この流れは朝廷が政治権力を失った鎌倉期以降、急激に加速していった。仏教は日本人の思い・願い・呻きに応えることで、日本人に受容され今日まで存続してきたのである。その姿はインド仏教のそれとは大きく異なって映るかもしれない。しかし、仏教には教義を固定化しない柔軟さと、柔軟であるがゆえの強靱さがあることを、われわれは忘れてはならない。 |