仏教の目的ば梧りを得ることであり、その体験をブッダが語ることから仏教は始まる。その悟りはanuttarā samyaksaṃbodhi(阿褥多羅三蒻三菩提,無上正等覚、無上正等菩提)といわれたが、原始佛教や部派仏教ではこの悟りと区別して、阿羅漢になることを目的とする阿羅漢菩提、あるいは声聞菩提が説かれ、ブッダの悟りと区別するようになった。初期の仏教では弟子と師たるブッダの悟りには明確に一線が一画されていたのである。したがって、大乗仏教で凡夫の弟子たちが発菩提心(無上正等覚心)を発して正覚を得ることができると宣言するに至るまでは、教理的にかなりの飛躍があることがわかる。 その間の悟りの考察についての発展を示す概念が、主に有部などで説かれた三種菩提説であり、それが三乗という大乗仏教に特有の思想へと展開するのである。 三菩提説は 声聞菩提・独覚菩提•仏菩提からなるが、仏菩提とはブッダの悟りそのもの一無上正等正覚である。そして、この声聞・独覚•仏の三菩提に基づきながら、くブッダの悟りこそが、菩薩の悟りである>と読み替え、菩薩を強調するのが三乗説に他ならない。 しかし、菩薩が悟りを求める者という意味であるならば、声聞も独覚も、立場や実践こそ違え、悟りを求めるという限りでは同一である。そうであるなら、三乗の菩提を求める者は、同じく菩薩と呼ばれてもいいはずである。しかし、三乗のすべてが、菩薩に集約されるならば、三乗や三菩提は何のために説かれたのか、といった議論もある。 これに類似した見解はすでに『婆沙論』に見られるが、菩薩を中心とした三乗思想の確立は、やはり般若経、特に大品系の般若経を待たなければならない。大品系般若では、三乗の解釈に二諦説を遥用して、世俗諦であることを明示し、それが畢斑空を根拠とすることに言及する。また、三乗中の仏乗を菩陸乗、あるいは大乗と読み替えて、そこから一乗思想が発生する道筋をつけた。この場合の一乗とは菩薩乗であるが、それには二乗を越える唯一の乗という意味と、悟りを求める菩薩という意味での菩薩乗という二義がある。このような菩藉乗の解釈こそが、三乗思想を解く鍵となっているのである。 また、般若経によれば菩薩は三乗のすべてに通ずる道であり、その意味で菩薩の智慧であれ実践であれ、声聞、独覚すべての道に通ずるものであることが明確に述べられている。 例えば梵本『八千頌般若』では、三乗について「如来によって説かれたこれら三種の菩薩乗〔によって修行する〕人々」とする。この三乗の例は唯一の例外であるが、く三乗とは菩薩道の三種類>であると明白に述べられていることは注目に値する。この箇所に対応する『一万八千頌般若』、『二万五千頌般若』も「菩薩乗の三種に区別はない」と繰り返しているので、般若経の主張は一貫している。つまり、ここでいう三乗とは、「声聞・辟支仏•仏乗(菩薩乗)」ではなく、菩薩の三つの修行形態を言っているのであり、そしてこれが「一〔仏〕乗」の意味なのである。般若経はこのような菩薩の姿を描き、仏道修行者のあるべきすがたを述べようとしたのである。 今回の「大乗経典に見られる社会」というシンポジウムのテーマとは直接一致しないが、本発表ではこのような菩薩の働きについて論じながら、従来の一乗・三乗思想からを菩薩の一乗という般若経の考え方を再評価し、そのことによって、大乗仏教の修行者にみられる社会への関わり方を考察するヒントとしたい。 |