戦前、中國に渡った日本人は、自己流のカタコトの中國語を話した。それが定式化して、変則的な中國語となったのが、「ピジン中國語」である。初めてピジン中國語が使われたのは、日清戦爭の時であると考えられる。日露戦爭後は日本が遼東半島に租借地をもち、さらに多くの日本人が流入し、ピジン中國語が発達した。「満州國」が成立した(1932)のちには、日本人のピジン中國語が大きな勢力となり、それは「協和語」と呼ばれた。また、日中戦爭が始まると(1937)何萬もの日本軍が大陸に侵入し、日本軍兵士はやはりカタコトの中國語を話した。これは「兵隊支那語」と呼ばれる。ピジン中國語の使用は終戦(1945)まで続いた。日常生活において、日中間にコミュニケーションの必要があっても、相手の言語をきちんと學習しようとはしなかった。それは、戦爭と植民地支配という関係のため、雙方に蔑視と反感があったせいであろう。戦後も、ピジン中國語の語彙・表現がいくつか殘っている。それは、日本では単なる外來語であるが、中國では日本軍兵士を象徴する語となっている。そこに、日中の近代史に関する認識の違いがあると言えよう。 |