本論文は、近現代の韓国仏教における戒律の役割を、現在、韓国最大の仏教宗団である大韓仏教曹渓宗の高僧慈雲盛祐(1911-1992)律師の行跡を中心に考察したものである。 朝鮮時代(1392-1897)と日帝强占期(1910-1945)、また、韓国戦争(1950-1953)と仏教内部の浄化運動(1954-1962)などの大変な時期を続けて経験しながら、韓国仏教は教団内部の混乱はいうまでもなく、対外的にもその位相が底を打っていた。何より、教団に広まっていた妻帯食肉の風潮を懸念する声が高まった。そこで、僧侶でありながら独立運動家でもあった白龍城(1864-1940)が、僧侶127 名の同意を得て、僧侶の妻帯食肉を禁止すべきであるという内容の建白書を総督府に提出することもあった。恐らく、慈雲はこの白龍城との出会いによって、戒律の重要性に目覚めたと推測される。彼と会った翌年、仏教の伝統を中興しようという大願を建てて、五臺山で文殊祈祷を行なった慈雲は、「堅持禁戒すれば、仏法再興するであろう」という、文殊菩薩からの感応を受ける。 この事件後、慈雲は戒律の学行こそ仏法再興の道であるという強い信念で、戒律書の翻訳、研究、出版、教育、受戒儀式の整備などに力を注いできた。これらの業績の中でも最も注目すべきことは、単一戒壇の整備である。不安定な教団状況の中で、新しい出家者を生み出す受戒儀式も混乱を極め、どこで、誰が、どのような方法で比丘となっているのか、全く把握されない状態が長い間続いた。当然、受戒後の教育もほとんど行なわれなかったので、僧侶として身につけるべき威儀もなかった。このような混乱を解決するために、慈雲が思い出したのが、「単一戒壇の実行」であった。単一戒壇とは、以前に各本寺や寺刹別で律師たちが恣意的に行っていた受戒山林を単一化して宗団次元で実行することであり、従来の受戒法会を律藏に基づいてしっかりと補完・修正したものである。1981 年から実行された、この「単一戒壇」は今までも続いており、その後、受戒による混乱は完全に無くなった。そして、受戒後の教育によって僧侶として身につけるべき威儀を具えるようになる。 慈雲の信念どおり、戒律に基づいた改革は、実際に韓国仏教の復興をもたらした。単一戒壇の整備や戒律の教育は、長い間混乱を極めていた韓国仏教が、その混乱から抜け出る出口となった。大変な時期を生きながら、その時代が必要とする、最も大事なことを見抜いた慈雲の判断と決行力があったからこそ、可能なことであったと言えよう。 |