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篇名 |
羯族的流遷與生活方式--以後趙建國以前為中心
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作者 |
金榮煥 |
中文摘要 |
五胡十六國時期,居住在中國幷州地域的羯族建立了強力的後趙政權,統治了中原。在羯族長期間向中原的遷移中,接受漢族文化的影響,比其他異民族進一步發展,在魏晉南北朝時期,達到了與漢族文化水準沒有太大的區別。他們這樣迅速接受漢族文化的原因是,第一,他們本身的文化比較多樣、開放。第二,形成這些文化的羯族,本身是種族來源上多種族的聯合體,內部持續的融合,再加上從外部與中原的漢族積極實現文化融合。因此,羯族在魏晉南北朝時期,在中國歷史上取得了值得注意的成就,羯族的痕跡傳到了後代,在隋唐時代,對於多種族、多文化的形成提供了重要的契機。羯族的諸初期社會形成內容包括以下諸項。第一,羯族的名稱方面。主要以羯,羯胡,雜胡來稱謂。而分佈地域以幷州上党郡武鄉縣羯室為中心。第二,羯族的衣食住行方面。大略可區分為匈奴統治時期及與漢族融合時期二階段。進入中原以後,與漢族沒有太大差異。比如說羯族的服飾與漢族的服飾沒有明顯區別;還有,衣服的製作技術也達到了一定的水準。至於飲食方面,也發生同樣狀況,就是說立足於居住地自然環境,以穀為主食,畜產物等為副食。居住方面,在進入中原以後,也與漢族沒有多大差異。第三,風俗習慣方面。(1)宗教以胡天神為中心,後趙建國以後也信奉佛教。(2)婚姻習俗則仍有當時漢族看來比較奇怪的婚姻方式,即「妻後母報寡嫂」,北方遊牧社會裡普遍存在的一夫多妻風俗。(3)喪葬習俗是與匈奴土葬完全不同的火葬,後趙建國以後也有潛埋。羯族的風俗習慣,逐漸與漢族融合以後形成了民族融合。第四,羯族的經濟以農業經濟為主流,畜牧經濟為副業。還有,他們的耕作技術和畜牧技術已經達到了相當的水準,與漢族沒有太大的區別。 |
英文摘要 |
羯族は長期間にかけて、中国內部に移動したし、羯族は漢族文化の影響と積極的な吸収努力で、他の異民族に比べて、進一歩発展した。これらがこんなに、迅速に漢族の文化を受け入れて、融合発展させることができたことは、彼らの文化が、比較的多様で、開放的からである。すなわち、このような文化を形成した羯族自体が、種族来源上、多種族連合体である。內部的には、持続的な融合を施行したし、外部的には、中原の漢族と文化変容の実現に積極的だったことが、その原因で ある。このような結果で、羯族はその跡を魏晉南北朝時期はもちろん、後代にまでつながって、多種族、多文化形成の重要な契機を、提供した。しかし以後には、むしろ度が外れた文化変容によって、徐徐に漢族などに融合されて、中国歴史上でその面貌を捜しすこてが難しくなった。第一、名称と分布方面では(1)名称は羯、または羯胡と呼ばれたし、晋代に晉人の雑胡に対する、一般的な称号になった。その外にも、戎羯、胡羯、羯賊、羯虜、匈羯と称えられたし、南北朝時期には、また契胡とも称えられた。(2)分布地域は、河北地域、すなわち今の山西と河北省の中間地帶である、新しく移住して来た、多くの雑胡とを言う。これらをまた細分すれば、并州の上堂郡武郷に居住する一派と、新興郡近所に居住する羯族で、分けることができるが、必ず上の二つの地域にだけ、限ったことではない。第二、生活習俗方面では(1)部落組職は、自分の種族の獨自性を維持するため、羯族を国人、羯語を国語と称えるほどに、他の種族との融合よりは、自分の独自性を維持するのを、願ったことと見える。(2)衣生活は、羯族は匈奴に隷属した時期には、遊牧に携わったし、彼らの服式も、匈奴族と基本的に大同小異だったろう。(3)食生活は、元々遊牧民族で、中原に進入する以前には、肉酪を主としたし、中原に進入した以後には、五穀を主とした。(4)住生活は、中原に進入する以前には、窮廬に居住して、移動と遊牧に携わった。しかし中原に進入した以後には、徐徐に農業を主とし、牧畜業を附随的にする経済生活によって、徐徐に漢族と類似の定居中心に変わった。(5)交通方面では、馬とらくだを主に利用したし、中原に進入した以後にも、馬と馬車を主要活動道具で利用した。第三、風俗と習俗方面では、(1)宗教は魏晉以後中原に進入した羯族石氏はもちろん、その他羯族らも、皆胡天神を信奉したし、後趙建国以後には、仏教を信奉した。その他信仰では、胡天神を崇拜すること以外に、天、地、日、月、鬼、神などを崇拜した。(2)婚姻は父親が死亡すれば、子が後母を妻にするとか、兄さんが死亡すれば、弟が兄嫂を妻にする、妻後母報寡嫂の方式の一夫多妻制だ。(3)喪葬習俗は、匈奴と違う火葬を行ったし、後趙を建国した以後には、潜埋と虚葬も竝行して行った。第四、経済活動方面では、(1)農業は漢族と融合し始めながら、農業生産と経営に対して積極的に参加したし、これが彼らの主要経済活動を農業経済に変化させる主要原因になった。同時に、人蔘と麻の栽培も、農業といっしょに併行された。(2)畜牧活動は、個人あるいは官営牧場(馬牧)があり、また専門的に、畜牧を生産して管理する官吏(牧率)もあった。その外に、狩猟活動も進行したが、規模も大きくて範囲も広大だった。 |
起訖頁 |
81-110 |
關鍵詞 |
羯族、生活方式、種族、部落、婚姻、喪葬、宗教、農業 |
刊名 |
成大歷史學報 |
期數 |
200812 (35期) |
出版單位 |
國立成功大學歷史學系
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該期刊-上一篇 |
魏晉南北朝時代的「獠族」與西南土著社會的變遷 |
該期刊-下一篇 |
客死異國和落葉歸根之間的國與家:以南北朝的降人為考察中心 |
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