本論は近代日本の南進政策の枠組みの中から、臺北帝國大學(現・臺灣大學)の役割を捉えかえしてみたものである。まず、臺北帝國大學の特徴は、文政學部の南洋史學と土俗・人種學講座、理農學部の熱帯農學・製糖化學・熱帯畜産、醫學部の熱帯衛生學・熱帯伝染病などの講座から構成されていたことである。このような「南方研究」という理念が貫かれている點で、日本國內の帝國大學と異なっていた。また、熱帯醫學研究所(1939年)、南方人文研究所(1943年)、南方資源科學研究所(1943年)などの研究機関も、アジア・太平洋戦爭が激化したころに設けられた。さらに、臺北帝國大學の海南島調査団は、総督府と海南島の海軍の協力により任務を達成していることからも、臺灣総督府、臺北帝國大學と海軍の三者の間には緊密な協力関係が見られたことを示している。要約すれば、臺北帝國大學は臺灣総督府の主導によって最初から南方研究の大學として位置づけられたのである。そのことは、各學部の講座・カリキュラム、附置研究所の構成・內容と増設などが如実に示している。その後、太平洋戦爭の激化につれ、臺北帝國大學による南方研究の成果と人材養成の機能は中央政府から注目を浴び、次第に拡大していったことも確認される。 |