『維摩経』(The Vimalakīrtinirdeśa)は「在家仏教の主張を明示する」経典という見方が一般的であり、『維摩経』は在家仏教運動の所産であり、維摩は在家仏教のリーダーあるとの見方が問題なく受け入れられている。しかし、かつては『維摩経』の「居士仏教としての聖道面」が強調されていたこともある。たしかに維摩は俗世間に身を置き、在家の姿をとって衆生済度に奔走している。だが、それは維摩の仮の姿(善巧方便)で、実際には阿閦如来の妙喜世界から来生している大菩薩である。 『維摩経』は、般若空慧による無所得平等の中道観から「成就衆生・浄仏国土」という大乗的課題を明らかにしており、維摩は中道の理に住し、衆生界の塵埃の中にあっても清浄である。本稿では、『維摩経』が出家に対してどのような考えを示しているかという点に着目し、『維摩経』における在家と出家の問題を考え、そのうえで、『維摩経』は在家仏教運動の所産とみる見方が果たして妥当かどうかを検討してみたい。 |