本論文は、調停者としての延寿像の変遷をたどることで、彼に「教禅一致」というイメージがどのように付与されたのかを解明する。延寿を直接知る賛寧と道原がそれぞれ編んだ延寿伝、および延寿の没後百年あまり後に慧洪が記した延寿伝のいずれにも、延寿が教と禅を統合したという話は全く見えない。皇帝によって教宗が禅宗の上に据えられる元代になると、当時を代表する禅僧明本により、延寿が教と禅の調停を果たしたという見解が提示された。ただし明本は「教禅一致」という言葉そのものは用いていない。仏教復興期の明末になると明末四大高僧のひとり徳清は、延寿の主著『宗鏡録』により教と禅が統合されたという理解を明確に示した。ただし徳清によれば、『宗鏡録』は教と禅のみでなく、仏教内部のあらゆる説を統合する仏教再興の書であるという。清代になると天下の最高権力者である雍正帝により、延寿の思想は国家の統合と安寧に資すると評価され、延寿と『宗鏡録』はそれぞれ「震旦第一の導師」「震旦宗師著述中第一の妙典」と絶賛された。かくして当時における延寿の地位は不動のものとなった。 このように各時代の仏教界の動向を色濃く反映しながら延寿像が変遷していく過程で、延寿の「教禅一致」というイメージが元代に形成され、明末に確立したのである。 |