本稿は、室町幕府初代執事高師直一族の庶流彦部氏の鎌倉〜南北朝期の動向を実証的に解明し、併せて彦部氏の武家名門としての清和源氏に対する敬意を考察したものである。いわば、史実と史観双方の関係の解明を目指した。 分析の結果、第一に彦部氏の名字の地が通説の陸奥国斯波郡内ではなく同国菊多郡内に存在したことを解明した。第二に、南北朝期には現存の彦部家諸系図には存在しない彦部氏が多数活躍したが、彼らは観応の擾乱(1350〜52)で足利尊氏・高師直派に所属したことによって没落したことを論証した。第三に、貞治年間(1362〜68)に鎌倉府(室町幕府の東国統治機関)に奉公していた彦部師朝や彦部直貞・重有兄弟についても知見を得た。 そして近代の彦部家が当初支持していた菊多郡説を放棄し、斯波郡説に転じた理由や背景を考察した。その最大の理由は、同地が文治5年(1189)の奥州合戦に際し、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が斯波郡陣岡に本陣を設置したことにあると考える。斯波郡説の採用は、いわば清和源氏という武家の名門に対する敬意の表れだったと結論づけた。 |