『浮世の画家』は、カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)による日本を舞台とする長編小説である。登場人物はすべて日本人である。有名な画家である小野益次が、輝かしい過去の画業を回想しながら、戦後の日本社会の変化に向き合うというあらすじである。先行研究では、記憶をめぐる諸問題や、日本美術史の観点から芸術と作家の運命とのかかわりなどが論じられてきた。 本論は、ふたつの考察からなる。まず、心理学の観点から、バルトの境界理論の一部を枠組みにして、小野のアイデンティティ形成と確立の問題を考察する。小野の娘の縁談とその過程は、精神の拠り所を求める小野のアイデンティティの境界線の再構築と、戦後社会における小野と他者との交渉と、深く関連する。 つぎに、本作品における「ジャパニーズネス」について論じる。登場人物を完全に日本人とするこの作品から、いかなる「ジャパニーズネス」が看取できるか。本論では、ステレオタイプ的なものが描かれた背後に、示唆される「ジャパニーズネス」を究明する試みをした。 |